新たなる時の出逢い

選考対象役柄

選考対象役柄お申し込みについて

時代行列選考対象役柄募集に多数のご応募いただき、誠にありがとうございました。
3月6日をもって応募申し込みを終了させていただきました。

第52回草津宿場まつり「草津時代行列」選考会の変更について

すでに御応募いただいた皆さまには、3月21日(土)の選考会およびかつら合わせに御出席いただく予定をしておりましたが、現在の新型コロナウイルス感染症の拡大防止と参加される方々の健康・安全面を考慮し、選考会を書類選考に変更することとしました。
書類選考を実施するにあたり、下記の資料を3月6日(金)までにメールにてお送りくださいますようお願い申し上げます。
また、選考に通られた方につきましては、3月21日(土)に少人数での説明およびかつら合わせを実施いたしますので、
御出席をいただきますようお願いいたします。
新たに御応募いただく皆様は下記フォームより申込みいただくとともに、メールにて必要資料をお送り下さいますようお願いいたします。
説明会およびかつら合わせの詳細については選考結果と併せて御連絡いたします。

書類選考に向けて必要な資料
(1)写真3枚
①上半身 ②顔写真正面のアップ ③顔写真横面のアップ
※画像データを添付してください。
※かつらをかぶった時の参考とさせていただきますので、前髪をあげて額と耳をだしたフェイスラインが見える写真を送付してください。
※写真加工アプリ等を使っての画像加工はしないでください。
(2)草津宿場まつりに対する思い
100文字程度でお書きください。
※送り先メールアドレス kika@iz2.co.jp

※選考会が中止になり書類選考のみに変更になったことで、参加を辞退される方は、お手数ですが、下記まで御連絡をお願いいたします。

※書類選考の結果は3月13日頃にメールもしくは郵送いたします。

※選考の結果、篤姫・和宮・徳川家定・幾島・鷹司任子・土方歳三役に選ばれた方は、4月6日(月)午前から実施いたします草津市長表敬訪問への出席が必要となりますので、あらかじめ御了承ください。

※4月26日の宿場まつりについて、本日時点では開催予定としております。今後の状況を注視し、変更がある場合は草津宿場まつりホームページや草津市公式ホームページ等でお知らせいたします。


【草津時代行列に関するお問合せ】
株式会社井筒企画(担当:兵庫)
TEL:075-343-0001
FAX:075-351-6947
MAIL:kika@iz2.co.jp

選考対象役柄応募方法について

お問い合わせフォームからご応募いただくとともに、必要書類をメールにてお送り下さい。

説明会(かつら合わせ)(3月21日(土)開催)

選考会対象役柄を希望される方は、まつり当日の参加と3月21日(土)の説明会(かつら合わせ)に出席して頂く必要があります。

選考について

※応募段階では各役柄グループごとの応募となり役柄の指定は出来ません。配役は書類選考によって決定されます。
※選考で選ばれた方は、事前のPR活動にご協力いただく場合があります。
※3月21日(土)の説明会(かつら合わせ)に参加して下さい。

選考対象役柄
《①女性推奨役柄》 □ 和宮(1名) □ 一条秀子(1名)《②女性推奨役柄》 □ 篤姫(1名) □ 鷹司任子(1名) □ 瀧山(1名)

《③女性推奨役柄》 □ 幾島(1名) □ 庭田(1名) □ 観行院(1名)

《④男性推奨役柄》 □ 徳川家定(1名)

《⑤男女問わず》 □ 土方歳三(1名) □ 斎藤一(1名) □ 伊東甲子太郎(1名)

※希望役柄を一つ選んで下さい

選考対象役柄ご紹介

①女性推奨役柄

和宮(かずのみや)
和宮

和宮は、第14代将軍徳川家茂の正室として大奥入りした皇女です。
和宮は仁孝天皇の第八皇女として生まれました。母親は仁孝天皇に仕えていた女官であり妃の一人である観行院です。孝明天皇の妹にあたります。
尊皇攘夷の思想が吹き荒れる激動の時代、朝廷と幕府は融和を図るために公武合体策を押し進めました。その一環として、和宮と将軍徳川家茂の結婚が決定しました。
この時すでに和宮は、有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王との婚約が成立しており、将軍家への降嫁は和宮にとって意に染まない決定でした。
しかしながら、文久元年(1861)に大奥に入った後は、夫となった家茂をよく支え、家茂もまた和宮に対し贈り物を贈るなど細やかな気遣いを見せ、政略結婚ながらも良好な関係を築きました。家茂が亡くなった後も京都に帰ることなく、徳川家存続のために力を尽くしました。姑にあたる篤姫とは、大奥での生活をめぐり対立もしましたが、徳川家の存亡の危機には共に奔走し和解しました。大奥の解散後も篤姫と交流を持ち、徳川家の人間として生涯を全うしました。
一条秀子(いちじょう ひでこ)
一条秀子

一条秀子は第13代将軍徳川家定の二代正室です。
初代正室であった鷹司任子(たかつかさ あつこ)が亡くなったことを受け、関白・一条忠良(ただよし)の娘である一条秀子が次の正室として嘉永2年(1849)に家定のもとへ輿入れしました。しかし病弱であったのか、輿入れから半年後に病で26歳という若さで亡くなりました。
篤姫と徳川家定、そして同じく家定の正室であった鷹司任子(たかつかさ あつこ)と一条秀子が、同じ山車に乗って登場するのを御覧ください。

②女性推奨役柄

篤姫(あつひめ)
篤姫

篤姫は第13代将軍徳川家定の正室として大奥入りした女性です。
篤姫は、元々は薩摩の島津家の分家に生まれました。その頃はまだ一(かつ)と呼ばれており、島津本家の島津斉彬(しまづ なりあきら)の養女となって、名前を「篤子(あつこ)」と改めました。一般的に「篤姫」と呼ばれているのは、ここから来ています。
篤姫はさらに、薩摩の島津家から京都へ行き、公家である近衛家の養女となりました。これは、徳川将軍家に輿入れするための処置でした。
篤姫が輿入れした相手は、第13代将軍である徳川家定です。篤姫は家定の正室、御台所(みだいどころ)として大奥に入りました。
しかし、夫である家定は病弱であり、篤姫が大奥入りしてから2年も経たないうちに病死してしまったため、二人の結婚生活は長くはありませんでした。
夫が亡くなったので、篤姫は落飾(らくしょく)――出家しました。この出家した時の名が「天璋院(てんしょういん)」であり、以後篤姫は「天璋院」と呼ばれるようになりました。篤姫は家定が亡くなった後も故郷の薩摩へは帰らず、そのまま江戸で暮らすことを選択しました。
家定の跡継ぎとして、紀州から家茂を14代将軍に迎えた幕府は、公武合体政策の一環として、孝明天皇の妹である和宮を大奥に降嫁させることに成功しました。家茂の後見人であった篤姫と和宮は、いわゆる「姑と嫁」の関係になります。最初は生活習慣の違いなどから不仲でしたが、後に二人は和解し、共に大政奉還によって存亡の危機に立たされた徳川家の救済に尽力しました。
篤姫は江戸城の無血開城の後も、鹿児島には帰らず江戸で暮らし続けました。規律の厳しい大奥から解放され、自由な暮らしを送りました。その一方で、解散した大奥の元関係者のために、就職先や縁組の世話などに奔走したため、亡くなった時の所持金はほんのわずかであったといわれています。
鷹司任子(たかつかさ あつこ)
鷹司任子

鷹司任子(たかつかさ あつこ)は第13代将軍家定の初代正室です。
関白・鷹司政煕(たかつかさ まさひろ)の娘として生まれた任子(あつこ)は、後に13代将軍となる徳川家定の最初の正室として天保2年(1831)に江戸入りし、それから10年後の天保12年(1841)に婚儀を結びました。しかしそのわずか6年後、病のため26歳という若さで亡くなりました。
瀧山(たきやま)
瀧山>

瀧山は、篤姫が大奥入りした時代の大奥御年寄です。第13代将軍家定、第14代将軍家茂、第15代将軍慶喜の3代にわたって仕えました。
14歳で大奥に入った瀧山は、その才覚が認められて将軍付きの御年寄となりました。NHK大河ドラマ『篤姫』では、大奥を取り仕切る総取締役を務める筆頭御年寄として登場し、優れた才女としての印象が強い女性で、大奥を語る上では欠かせない女性の一人です。

③女性推奨役柄

幾島(いくしま)
幾島

幾島は、篤姫付きの御年寄です。
幾島はもともと島津家の郁姫が近衛家の忠煕(ただひろ)に嫁ぐ際に、郁姫付きの御上臈となり、共に京都の近衛邸で暮らしていました。郁姫が亡くなった後は出家し、そのまま近衛家に仕えていました。
その後、島津斉彬の養女でる篤姫が近衛忠煕(このえ ただひろ)の養女として将軍家に嫁ぐことが決定すると、幾島と改名して篤姫付きとなり、篤姫の教育係となりました。そして篤姫と共に、自分も公家の養女として大奥に入りました。
大奥に入ると、幾島は江戸城と薩摩藩との連絡役として活躍しました。特に将軍の跡継ぎ問題や、薩摩藩との連携において重要な役割を果たしました。
さらに戊辰戦争の際には、篤姫の使者として討幕派である薩摩藩へ交渉に出向き、江戸城の無血開城に尽力しました。
典侍(ないしのすけ)
庭田嗣子(にわたつぐこ)
庭田嗣子

庭田嗣子は、和宮と共に大奥入りした和宮の側近であった女性です。
元々は仁孝(にんこう)天皇に仕えた典侍(ないしのすけ)という高級女官で、主君である仁孝天皇が亡くなった後も宮中に留まり、後宮の指導にあたっていました。
嗣子は、仁孝天皇の次に天皇として即位した孝明天皇の妹、和宮の江戸降嫁が決まると、和宮付きに任じられ、和宮と共に江戸へ下りました。大奥に入ってからは和宮の側近として、終生和宮に尽くしました。
観行院(かんぎょういん)
観行院

観行院は、和宮の生母です。
元々は橋本経子(つねこ)という名前で、仁孝天皇に仕えた典侍(ないしのすけ)という女官でした。観行院は仁孝天皇からの寵愛を受けて妃の一人となり、天皇との間に和宮が生まれました。「観行院」という名前は、仁孝天皇が亡くなり出家した時の名前です。
和宮の将軍家への御降嫁が決まり、母親である観行院も共に大奥へ入りました。これは和宮の兄である孝明天皇が、遠い江戸の地へ輿入れする和宮の精神的不安を軽減させようとした処置でした。
和宮と共に大奥入りした観行院は、大奥の生活の中で、御所風を守り和宮を支えようとしました。

④男性推奨役柄

13代将軍徳川家定(とくがわ いえさだ)
徳川家定

第12代将軍徳川家慶(いえよし)の四男で、嘉永6年(1853年)徳川家の第13代将軍となります。その後、正室として鷹司政煕(まさひろ)の娘・任子や一条忠良の娘・秀子を迎えるも、いずれも早世したため、安政3年(1856年)近衛家の養女であった篤姫を、正室として迎えられます。

⑤男女問わず

土方歳三(ひじかた としぞう)
土方歳三

土方歳三は新撰組副長です。局長である近藤勇の補佐しその手腕を発揮し、剣豪揃いの隊士たちから「鬼の副長」と恐れられていました。
新撰組の鉄の掟である「局中法度」は土方歳三が定めたものだといわれています。
草津宿には、池田屋事件(1865年)の翌年、江戸で新たな隊士を募集し、京へ戻る途中で訪れました。
戊辰戦争では負傷した近藤勇に代わり新撰組を率いて新政府軍と戦いました。日本各地を転戦し、最後の戦場となった箱館五稜郭の戦いで銃弾を受けて亡くなります。
新撰組の隊士の中でも最後まで旧幕府軍の武士として戦い抜き、武士として散った人物です。
斎藤一(さいとう はじめ)
斎藤一

斎藤一は新撰組三番隊の隊長で、撃剣師範も務めた剣豪です。
戊辰戦争では新政府軍と戦い、各地を転戦しました。会津藩の指揮下に入った斎藤は、土方らが別の地へ向かったのに対し、会津に残留して会津藩士とともに新政府軍への抵抗を続け、会津藩が降伏した後も戦い続けました。会津藩主・松平容保の派遣した使者の説得により投降した斎藤は、会津藩士とともに謹慎し、会津藩が斗南藩として再興すると、斗南藩士として下北半島に移住しました。
明治維新後は東京で警察官となり、西南戦争では警視隊に所属し、西郷隆盛軍と戦いました。
警察官を退職後は東京高等師範学校や東京女子高等師範学校に勤めました。
伊東甲子太郎(いとう かしたろう)
伊東甲子太郎

伊東甲子太郎は新撰組の参謀兼文学師範であった人物です。剣の腕も立ち、巧みな弁舌から人望の高かったといわれています。
元治元年(1864年)に藤堂平助の仲介で新選組に加盟しました。
水戸学を学んだ伊東は勤王思想に傾倒しており、攘夷という点では新選組と志を共にしていましたが、佐幕派である新撰組と方針の違いで矛盾が生じ、慶応3年(1867年)に新撰組を離脱、同志と共に御陵衛士を結成します。同年、新撰組隊士により暗殺され、志半ばで散っていきました。

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